物づくりの小話し、あれこれ 92話 感動なき社会

物づくりの小話し、あれこれ(著者 小林弘司様) 92話

92.感動なき社会

 いまの社会というのは、物質的には豊かであるのに、すべてに、割り切っていて、感動を失って
いる。
貧しい国々の子供達の目を見て、目が澄んでいるといったり、はるばるネパールやインド、ミャン
マーまで出かけて、有名なお坊さんの話しを聞いて、涙を流し大感動している。
これは一例であるが、感動がなくなったというんで、あちこち、うろうろ感動を求めて、さすらう
時代になっている。
 本来、感動というのは与えるものであって、求めるものではない。
自分の行いや生き方が、日本人という民族が、各々、人々や世界の人に感動を与えるようでなけれ
ばならない。
 なぜ?我々の生活のなかから感動が失われるようになったのか。
それは日常生活のすべてを「簡単に楽に手間を省いて」と考えている内に、いちばん大事な心まで
失ってしまったのではないか。
 やっぱり、手間ひまかけないと、人を喜ばすことはできない。
「これは私が丹精込めて、つくったです」
「これは私が丹精込めて、仕上げたものなんです」
「これは私が心を砕いて、やったものです」
となると、どんな小さなことでも、「ああ、ありがとう」となる。人が「ありがとう」と喜ぶ様子
を見て、「やってよかったな」「そうしてあげてよかったな」という感動。
こういう日常的な感動を取り戻したい。
 日常の中にわれわれの感動する場面はいっぱいある。
その生活の中で随所に感動をよみがえらせていくことが大事だと思うのです。
いきなり大きなこととか、いきなり人類全体を感動させるといっても無理だと思う。
小さな輪を広げていって、気がついたら日本全体が感動の国になっているというかたちになってい
くという。
 この話しを聞いて「生産改善」の場でも、まったく同じことが言えると思った。
「手間ひまかけて、粘り強くやったこと、困難が多かったもの」ほど「やった!」という感動は大
きい、また相手にも喜ばれる。
やっても、感動がないとしたら、「簡単なもの」「挑戦的な目標をもたなかったもの」「ニーズに
乏しい」であったということになる。
 自主研活動でも、メンバー側、職場提供側、共に燃え立った時には必ず感動がある。
何度か、そういうことがあるから続けられる。

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